日本中国料理、どこから始まるのかを考えると...(^_-)-☆

2年ほど前に図書館で見かけてから気になってた本を先日やっと借りました。

「長崎奉行のお献立」江後 迪子さんが書かれた本デス。食文化、特に江戸を中心とした著書が多い方デス。

★ 江後迪子の食文化研究所

  http://michiko-ego.blogspot.jp/ ※ 2007年に立ち上げてから動き無し

 

日本と中国料理の繋がりを考えて見ると、その節目はいろいろとある。戦後、そして震災後、さらには明治から江戸期後半...もうちょっと遡ると朱印船貿易、南蛮貿易...「和魂漢才」という概念が生まれ、遣唐使、遣隋使、仏教伝来...。あ、歴史ではなく現代の日本中国料理の流れという観点でした、そうなると普茶(フチャ)料理や黄檗(コウバク)料理の京都、そして卓袱(シッポク)料理の長崎がそうなるかなぁ~、するって~と江戸初期からでしょうかね。そうです、インゲン豆の由来となる隠元隆琦(インゲンリュウキ)禅師が来日。長崎の住持として招聘、その後に京都で開祖となる方で、普茶料理といえば隠元禅師といわれています。そして長崎は鎖国状態の江戸時代には唯一の開港で、中国やオランダと正式に貿易をしていた場所。当然外国人達は自国の生活習慣を持ち込むので、日本と中国、オランダという各異文化が食を介する事(一緒に会食をしたりし)で生まれたのが卓袱料理なのだ。別名「和華蘭(ワカラン)」。日本の食事スタイルとしては基本的に個別の御前で床に座ってという形態で提供されるが、卓袱は卓はテーブルで袱はシーツの意味で椅子があり、大皿で料理が提供される食事形式。日本では当時禁止されていた肉料理も提供されていた。ちなみに普茶は「世に普く茶を広める」という煎茶道に由来する精進料理。

 

さて、本書をなぜ読もうかと思ったかと言うと、日本中国料理はどこからなのかを線引きする場合に明治からにしている方が多いのですが、すでに江戸時代には卓袱や普茶という中国から伝わっていた料理がすでに存在していた事実があったので、チト興味を持っていたので検索。そうしたら、たまたま目に入ったのがコレだった ↓

 ★京料理のルーツは中国料理にあり!

    http://www.kandagakkai.org/archives/article.php?id=001997

             傅健興/フウケンコウ氏

そうです、戦後まもなく神保町で1946(昭和21)年創業した新世界菜館や咸亨酒店、さには紹興酒といえば大越酒業の「紹興貴酒」と呼ばれるほどのブランドとなっている上海蟹でも有名な貿易會社である健興通商の代表、傅 健興(フウ ケンコウ)氏が書かれた上記のリンクだったのデス。

神保町に東京初の中華街であったのは清末期、そして日本は明治30年代。諸外国からの侵略で疲弊した清朝は日本をお手本にするため、若い学生達を留学させて自国の復興を考える。幻の東京オリンピックでの旗振り役、そして多数あった柔術派をまとめ、柔道というスポーツを世界に広める事となる講道館の嘉納治五郎氏を中心に、留学生を受け入れる体制を作ったのが始まりで、明治末には5万人の留学生となったそうだ(その後辛亥革命や戦争の影響で留学生は減少)。揚子江菜館、漢陽楼、維新號(移転)など留学生のために食事で応援していた名店は現在も老舗として、時代の波にうまく合わせながら営業中で創業者は寧波市出身。魯迅氏、蒋介石氏、周恩来氏などなど著名人を多数輩出している港町。京都とのつながりは遣唐使、遣隋使の時代から始まり、鑑真和尚、道元禅師、栄西禅師、最澄などなど寧波と仏教の繋がりの深さを例に挙げて、その当時の料理と現代中国料理との違いを油であると傳氏は語っていた。現代中国料理のように、下味をつけて揚げてから炒めるというような油が豊富ではない時代の中国料理、それは調理方法の違いなのだ。

 

        

 

さて、長崎と京都。当然の仏教関連。そしてそれは福建省とのつながりでもある。隠元禅師からの普茶と長崎の卓袱、和華蘭(和=日本、華=中国、蘭=オランダ)料理。共通する調理方法は「煮込む」「蒸す」、そして「茹でる」というシンプルな調理方法が主流。江戸期では現代ほど油は消費製品ではなく、貴重品であり、また火力としての石炭はあるが、コークスはまだないという事実。それでは実際に何をこの当時の人達は、あ、中国料理に関してネ、食べていたのだろうかという疑問。

コレを読む前に、ある程度の予測を持ったので本書を手にとったのでした...基礎知識なく読んでも多分ダメだったなぁ~...半分位読んだ時に、実感でした。いや、なかなかに面白いデス。当時のコース内容がそのままでているのである程度どういう料理かは予測がつきマス。借り物なのでザーッと読破しましたが、また借りた時にはじっくり読んで見ようと思いました(^_-)-☆

 

現代の我々は中華・中国料理に関しての概念がすでにあるので、「油を大量に使わない中国料理なんてありえない」と考えるのは当然デス。しかし、使わないではなく使えない。なぜなら江戸時代では一般に大量に出回るほど、油は安く無いし生産もされてませんからネ。じゃあ、油を大量に使う現在のような中国料理はなかったのかというと、これは中国の宮廷に存在していた。清国滅亡、中華民国成立により、宮廷の料理人達が民間に出た事で急速に広まっていく(実際は清中期以降では徐々に統治能力が低下しており、国の役人と一部の富豪との癒着で宮廷料理人をお抱えとする流れは存在していたのだが)。

さて日本だが、本格的に宮廷系の料理人が作る現代的日本中国料理が入ってくるのはというと、関東大震災前後位から昭和が始まるあたりからと考えられる。戦争の拡張による燃料の研究と発展はインフラ整備となり、コークスからガスへ、「料理」と言うソフトは「厨房設備」というハードによって支えられている。大震災、敗戦という試練を乗り越えて現代の日本中国料理は進化していくのだ。「煮込む」「煮る」「蒸す」だけではなく、『油で揚げてから炒める』という調理法は本格的に幕を開ける。「下味を付けて揚げる」「揚げてから炒める」「揚げてから煮込む」さらにその上から「別のソースをかける」...これらの宮廷料理がベースとなり、その後にその技法からさらに新たなる料理人達が試行錯誤を重ねて今もその進化は続いている。

歴史的背景を無くして、その料理がどこで出来てどう生まれたか、というのを見つけるのは中々出来ませんなぁ~。やはり、地道にコツコツと知識を増やす事が近道なのでしょう。長崎と佐賀の関係も書かれており、随所で「ほ~ぅ!」と歓心したり、長崎だから楊其二氏について何かでるかなぁ~、唐通事の家系だし...出なかった、とガッカリしたり。

面白いね、本読むの。さぁ~て、次は何にしよっかなぁ~(^_-)-☆


★ 長崎奉行のお献立

  http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b81015.html

 

和魂華才、俺のCHIなサロン!

日本の中国料理についてのこれまでの知識、そしてこれからの情報を自分なりにまとめて発信しマス! ご興味ある方はぜひお付き合いいただければ幸いデース(^_-)-☆