神戸中華街~、イエイエ神戸は南京町~前編

神戸華僑歴史博物館は残念でしたが、気をとりなして飯、メシ~!!

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久しぶりだなぁ~、神戸の中華街。あの当時は興味はあったけど、ここまで中国料理関連の知識はなかったから、記憶は朧気デス。まぁ、初めて来た気で行ってみよう!

日本三大中華街の一つである神戸は“中華街”という名称ではなく「南京町」という統一名称で1977(昭和52)年に設立した南京町商店街振興組合の主導により、かつての繁栄を取り戻すために始まり、現在に至る・・・?・・・どーいう事?・・・ってぇ~事は、40年ほど前までは繁栄してなかったのかなぁ?

そもそもコノ地は、明治元年(1867年)に神戸港開港で外国人居留地が出来て、その外国人達が運営する会社の雇用された買弁(日本人との通訳、後に交渉人として財を成す方々が出て来る)や独立した貿易商、雑貨商、金融業、船舶保険や為替の実務処理、三把刀(サンバトウ=料理・床屋・洋服仕立屋などの刃物を扱う三つの業種という意味)の従事者など多くの中国人住居地帯となって行った。「落地生根」・・・“故郷を遠く離れ、その土地の人々や習慣になじみ、子孫に囲まれて円満な家庭を築き、やがてはその土地に根を生やす”という言葉通り、異国の地で彼らは必死に働く。親から子へ、子から孫へ...その弛まぬ努力が実り、昭和初期には「ココに来れば欲しいモノがなんでも揃う」と言われるほどの繁栄をしたのだ。

お~、北京ダック!!

あら、ちゃんと捌いてマスなぁ~♪ 寒いのに頑張ってマス!

お、熱いの出すの~!? それならば!!

ジャーン、買っちゃいました! まぁ、ボリュームあるゼイ、しかも熱いのカナァ~、いただきマース・・・やはり見た目道理食べづらいデスがCP良しの500円が400円! というのも呼び込みというか、神戸南京町は凄い活気で店頭に出ている売り子達がまぁ~よくしゃべる、しゃべる。「んじゃあ、400円でどうだ!」見ていた俺は「ハーイ」といの一番でGETしました。味的にも悪く無し。日本では高級中国料理の代名詞として皮だけを提供するスタイルが根付いてしまったが、本場北京では肉付きなのデス。まぁ、肉にパサつき感有りなので中国産ではないが、まぁ良しでしょう。デモね...冷たいのでした。熱くなかったんデス。上の画像だと焼き上げたダックを保温してるのカナァと思ったんですが、フェイクでした...残念...ま、値段が値段だし、けっこうボリュームありますから、露天で食べる楽しみとして良しとしましょう、ご馳走様でしたm(__)m

しかし、スゲェ活気デス。横浜中華街は結構呼び込み(警察)や店頭販売(保健所)に関して厳しくしているので、ちょっと新鮮、というか懐かしい感じですナァ~。アイテムも豊富デス、「お客への迷惑になる」という考えは当然ですが、こういう活気ある雰囲気は楽しみでもあると言えます。まぁ、声をかけるにも線引は必要で、その基準は難しいよネ~!

さて、世界中の品物が揃うと言われた神戸南京町、それは唐突に幕を引かれる。そう、複数回の空襲に神戸は見舞われ続けた結果、街は壊滅、そして敗戦...神戸港は米軍の基地として占領され、兵隊達は我がモノ顔で街中を闊歩する。だが、怯えてばかりはいられない。どん底からの這い上がりは強く逞しく育つ。バラックが立ち並び、国内最大級といわれる三宮、そして南京町は闇市として活気を取り戻していくのだ...そして朝鮮戦争勃発で日本経済は特需という恩恵を受けて、戦後から脱却していく。南京町も当時の面影を徐々に取り戻していくが、神戸港が米軍基地となった事で、負傷で戦地から収容されたり、臨時休暇で立ち寄る兵士達は荒んでいる。その兵士達をターゲットとしたBarなどの商売が南京町では急速に増えるが、治安は悪化する。酔客は横暴で飲食代の踏み倒し、暴行が日常茶飯事となる街。住み慣れた街、しかしこのまま居たら何をされるか、何が起こるかわからない。離れざる得ない決断をした人々は一軒、また一軒と離れて行った。1960(昭和40)年代に入り、南京町には中華系の店は二軒、そのうち中国料理専門店は一軒だけになる。

南京町の中心部にある「あづまや」。この広場で様々なイベントが行われるそうデス!

★ 公式「熱烈歓迎! 南京町」 https://www.nankinmachi.or.jp/

 

ありました、ありました、1915(大正4)年創業の『老翔記(ロウショウキ)』さんで「豚饅頭」命名のお店。創業者の曹松琪(ソウショウキ)氏で上海から横浜でコックとして勤務。日本人女性と結婚後に一度帰国してから、神戸へと来日。知人から店を譲り受けて、「南京の豚まんじゅう屋」として現在も親しまれ続けている店をオープンした。創業から同じ場所で同じ屋号で営業を継続し続けて現在は四代目となる老舗中の老舗。前出した通り、南京町では中華料理専門店は一店舗という状態になりましたが、中華関連店舗としてはコチラの老翔記さんと二店舗がコノ地を守り続けているお店となるのデス。

という事で早速購入!!

店の前は平日であるのにも関わらず、長蛇の列!

購入! それでは早速♪

小ぶりデス、昼メシ前にはちょうど良しデス。形状が気になるので一個目は!

・・・結構しっかりとした味入れデスなぁ~、具はギッチリと塊で蒸すと若干の空洞が出来るんだナァ~。こういう食べ方ではなくて、一口で食べて咀嚼しなければいけないタイプ、そう発祥時の小籠包と同様で、「熱々だからレンゲに乗せて皮を破ってスープを吸ってから召し上がれ」・・・ダメだよネ、皮やぶっちゃ。なんのためにわざわざ皮でくるんでいるの?口の中でツブす、そうすると口の中でスープが広がって美味しいのデス。グラグラ煮立ったスープを直接口をつけてのまないでしょう?同じデス。ちょっと時間をおいて“適温”を口の中に放り込む...そういう事ダネ...さて、もう一個は...そうそう、やはりコノ食べ方で旨しデス。中心部のしっかりとした味と皮のアッサリ感を持つ皮の旨味が融合、なるほどコレはいけますナァ~。ちなみにこの皮はイースト菌ではなくて、麹菌だそうで戦中の疎開先でも創業者の奥様が守られていたそうで、現在まで受け継がれているそうデス。以前、赤坂勤務時に中国人の中にサービス責任者として一人だけという状態で勤務しており、マカナイの際「店長、今日は水餃子だよ」との事。そーしたら、山のような水餃子でオカズは無し。「いただきマース」と嬉しそうに水餃子を貪る中国人達、戸惑う俺。一つ口に運ぶと至ってシンプルな味付けで、なるほどコレならば行けるネと一緒に貪る。ご飯は不要でタレで味を変える楽しみ。一人で40~50個食べてました。この感覚と近いネ、この豚饅頭は。これならばコレだけで20~30個、コレだけで食べられるネなどと思いながら、この後はまだ別のを食べるので、今回は美味しく頂戴しました、ご馳走様~(^_-)-☆

来ました、『民生 廣東料理店』さんデース。こちらが昭和40年代に神戸南京町で唯一の中華料理専門店として営業され続け、現在も老舗中の老舗といわれているお店デス。

当然でしょ、ココでは紹興酒。一世を風靡した塔牌から南京町使用のボトルをロックでいただきマス。クイーッとネ・・・ダックと肉マンでチト腹にあるのでスーっと、入ってキマス。前菜と料理二品ほどオーダーです!

前菜盛り合わせ到着。面白い器ですネ。上からタコの冷菜、合鴨、白身魚の冷菜。どれも鮮度良しでサッパリしながらもしっかりとした味付けで、普通に旨しデス。これは、クイーっと、ススミますナァ~♪

お店の雰囲気は老舗の風格、壁には著名人のサインが多数飾られてマスなぁ。現在の民生廣東料理店となって、創業1962(昭和37)年創業で55周年となるそうデス。創業者は呉信就氏で、南京町商店街振興組合理事長の時に神戸の中華街を「南京町」とする際「(神戸は)南京町で通ってるんやから、ええやないか」と意見をまとめ、商標登録などを含めたブランド化に向けての戦略が統一化されて現在に至るようデス(^_-)-☆

戦後疎開から10歳の時に故郷の神戸に戻るも焼け野原。肉屋だった実家跡地では番頭だった方が飯屋を開業していた。空腹を満たすのに大人も子供もない、店を手伝い、貧しいながらも少しずつ活気を取り戻す南京町。そして朝鮮戦争の特需で物資が豊富になり人はそれを求めて溢れ、戦前の状態を取り戻していく。が、神戸港は米国の基地となり戦地で負傷したり、特別休暇で訪れる兵隊の心は荒んでおり、その憂さ晴らしが南京町で急速に増える外人バーを中心に行われるようになると、一般人からは危険な街として避けられ、商売をしていた人々は苦渋の選択で街を離れて行く。米軍撤退という吉報もその頃には南京町への印象は人々からは危険な場所として認知され、やがて中国料理の専門店は自分の店のみ、中国料理関連では肉饅頭の老翔記さんと二店という状態になり、かつては何でも揃うといわれ、一世を風靡した市場「南京町」の面影はすでに失われていた。

八宝菜、炒め物系ですナ。最近主流は広東系ならばソースをかけるようなタイプが多い。これは味の均一化を目指す余りの結果で、炒めるという個人差が出る料理方法は避けられている傾向にある。結果、鍋振りという職人が育っていない店が多いのだが、こちらはちゃんと油通しして、ジャーレンで油をしっかり切って炒め、最後に香り醤油で風味をつける王道を維持されてました、美味しデス。

春雨帽子を外して見ると、中から...♪

牛肉とトウチの炒め~、この中国黒豆が旨しデス。パプリカ、スナップエンドウのシャキシャキ感が嬉しい。いや~ウメェなぁ...ダメ、わかったよ、わかってマスって...そうね、これから観光もあるしネ。さすが女房殿、料理を口に運び、うれしそうな俺の顔を見たら、視線が残り少なくなったボトルをジッと見始めたのを見て、察知の駄目出しデス。これ以上注文すると、予定を変更してココに腰を据えて飲むパターンになるので、今日はダメとの事。まぁ、神戸華僑歴史博物館のリベンジもあるし、神戸にはまた来たいと思っているのでいたしかたありませんナァ~(^_-)-☆

ちなみにコチラが民生廣東料理店さんの名物「いかの天ぷら」!

次回の楽しみにいたしますm(__)m

民生廣東料理店 http://www.minsei.net/

1977(昭和52)年、神戸異人館がNHK大河ドラマ「風見鶏」の舞台となった事で観光地として脚光を浴びた事から南京町の流れも変わり始める。神戸市から「次の観光地は南京町で」と後押しがあり、このままではどうなる事やらと考えていた商店主達も「よし!」と立ち上がる。同年に南京町商店振興組合設立。各店1/4程の土地を売却して道幅の拡張や広場や牌楼の建設など着手し、徐々に現在の南京町となり、現在に至る。

 

★ 南京町大全「南京町の沿革と年表」

  https://www.nankinmachi.or.jp/about/taizen/

★ 南京町列伝「民生廣東料理店」創業者、呉信就氏の物語

  https://nankinmachi.or.jp/about/retsuden/retsuden-01.php

実はこの「南京町大全」と「南京町列伝」は南京町商店振興組合が運営する公式ページ「熱烈歓迎!南京町」のトップページおよびサイトマップから入れないというか、リンクがなされていません。どなたかこの事を知った方は信仰組合事務局までお知らせいただけると幸いデスm(__)m

 


2018年は南京町生誕150年という事でイベントが目白押しだそうだ。今回のリベンジがあるから、機会があればうかがってみたいナァ~、ネ、女房殿! (^_-)-☆

いや、美味しくいただきました。そうそう、「名物いかの天ぷら」も心残りなのですがもう一つありました!!

知る人ぞ知る、民生のマスコットのダイゴ君。ダイゴ君、お会い出来ずに残念でした。次回はぜひ一緒に撮影をよろしくお願いいたしマスm(__)m

 

和魂華才、俺のCHIなサロン!

日本の中国料理についてのこれまでの知識、そしてこれからの情報を自分なりにまとめて発信しマス! ご興味ある方はぜひお付き合いいただければ幸いデース(^_-)-☆